2012年06月18日
平家のお話し
行盛神社のお話し
1185年壇ノ浦の戦いに敗れた平家一族で平資盛(重盛の子),平有盛(資盛の弟),平行盛(重盛の弟の子)等の一行が南島に落ちのびたと言う伝説がある。一行は喜界島を経て奄美大島に渡り全島を平定,うち資盛は諸鈍(瀬戸内町),有盛は浦上(名瀬),行盛は戸口(龍郷町)にそれぞれ居城を構え源氏の来島に備えた。
また、遠見番として今井権大夫を安木屋場に、蒲生左衛門を屋仁崎へ召し置いた。 現在 今井権現神社と蒲生神社として祀られます。
3城の中でも戸口城は最も堅固に築かれいたといわれ現在の戸口小学校裏のひらき山にあったという。
こうして30年間、島を統治していたが資盛公は先に死去し、行盛、有盛公は年もすでに老いて、平家再興の望みも失せ、遂に城を焼いて自刃し、一門は土着して百姓となったものと見られている。
村民はひらき山に行盛神社と平家の守護神、厳島神社をたてて祀ることにした。
ところが行盛公の怨魂が祟り、城下を通る馬上の人を落馬させたり、沖を通る大和船を呪って沈めた。
村人達は神社から海が見えるからだと判断し、神社を海の見えない現在の寺山に移したところ海難がなくなったといわれる。
ひらき山麓に厳島神社がある。
大熊8月踊りの『でっしょう』として伝わる歌詞と似た歌詞があります。
◯でっちゅ初めたろ 誰がよ初めたろ
真名瀬浦上ぬ 鍋加那初め
◯浦上鍋加那や つばき花きようさ
筆墨ぬ初まりや 浦上鍋加那
◯うしあじんたてて 米うたしやしが、
浦上鍋加那、そくら初めし
鍋加那は平有盛の妻
やはり学問・稲作を伝えたのも平家
有盛神社は我々大熊の隣り集落に祀られている やはり大熊にも関係深いですね
1185年壇ノ浦の戦いに敗れた平家一族で平資盛(重盛の子),平有盛(資盛の弟),平行盛(重盛の弟の子)等の一行が南島に落ちのびたと言う伝説がある。一行は喜界島を経て奄美大島に渡り全島を平定,うち資盛は諸鈍(瀬戸内町),有盛は浦上(名瀬),行盛は戸口(龍郷町)にそれぞれ居城を構え源氏の来島に備えた。
また、遠見番として今井権大夫を安木屋場に、蒲生左衛門を屋仁崎へ召し置いた。 現在 今井権現神社と蒲生神社として祀られます。
3城の中でも戸口城は最も堅固に築かれいたといわれ現在の戸口小学校裏のひらき山にあったという。
こうして30年間、島を統治していたが資盛公は先に死去し、行盛、有盛公は年もすでに老いて、平家再興の望みも失せ、遂に城を焼いて自刃し、一門は土着して百姓となったものと見られている。
村民はひらき山に行盛神社と平家の守護神、厳島神社をたてて祀ることにした。
ところが行盛公の怨魂が祟り、城下を通る馬上の人を落馬させたり、沖を通る大和船を呪って沈めた。
村人達は神社から海が見えるからだと判断し、神社を海の見えない現在の寺山に移したところ海難がなくなったといわれる。
ひらき山麓に厳島神社がある。
大熊8月踊りの『でっしょう』として伝わる歌詞と似た歌詞があります。
◯でっちゅ初めたろ 誰がよ初めたろ
真名瀬浦上ぬ 鍋加那初め
◯浦上鍋加那や つばき花きようさ
筆墨ぬ初まりや 浦上鍋加那
◯うしあじんたてて 米うたしやしが、
浦上鍋加那、そくら初めし
鍋加那は平有盛の妻
やはり学問・稲作を伝えたのも平家
有盛神社は我々大熊の隣り集落に祀られている やはり大熊にも関係深いですね
Posted by おっしー at 22:58│Comments(0)
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